(8)レッチェ~ターラント [2002 秋プーリア・ロマネスクの旅]
朝はゆっくり起床、美味しい朝ご飯で元気いっぱい。午前中はレッチェのドゥオーモまで行ってみました。ホテルで一緒になったツアーの添乗員さんの話では、ジプシーの泥棒に注意とのことだったので、きょろきょろ歩きましたが、それらしい人も見かけないし、観光客の多いところには女性警官も見張っているので安心でした。とにかく、バロックはあまり肌に合わない感じが強いので、ドゥオーモもサーッと見学して終わりました。
↓レッチェのドゥオーモ広場
↓レッチェの円形闘技場跡
↓レッチェのホテルをチェックアウトして
昼頃の列車で(ブリンデシ経由)ターラントヘ。特急なので追加料金を13€支払いました。
↓車窓から雨に煙るターラントの街が見えてきました。
ターラントに着く頃は雨が激しくなってきたので、タクシーでドゥオーモに寄ってからホテルへ。ドゥオーモは内部を修復中でした。ドゥオーモのある旧市街はこういう町は初めてといっていいほど、荒れ果てた感じなので、運転手さんに治安はどうですか?と訊いたら大丈夫だよとのこと。見かけはボロボロでも悪い人はいないって、と自分にも言い聞かせました。雨が降ると寒いので、バスタブ付きの部屋に替えて貰いました。ロフト形式、螺旋階段の2階に大きなダブルベット、洗面所がついています。1階にはキチネット、ここもNYと同じにコンロなし。居間も広く、独りでは寂しいくらいな感じ。レセプションの女性に近くのレストランを教えて貰って、さっそく遅めのランチ。旧市街への橋の近くにある海鮮レストラン、ここはナント!!7皿の前菜、これだけでお腹がいっぱいになってしまいました。ワイン、水、ケデザート、チップ込みでも17EUR★★★でした。港町なので、蛸、イカやムール貝がさすがに旨いのです。
↓ホテル
↓ホテル近くの街並み
夜はお湯をもらって持参のカップラーメンですませました。
↓メゾネットの部屋
↓侘しくカップラーメンを食べる
(7)レッチェ(オートラント、ガラティーナ) [2002 秋プーリア・ロマネスクの旅]
朝食のとき、日本人のツアーの方たちと一緒になりました。添乗員さんに「お一人ですか?」と大変驚かれ、この町はジプシーもいるので気をつけてといわれました。でも、あのモルフェッタの男の子たち以外はジプシーとか怪しい人達には一度も会っていないのです。
10:30発のSUD=EST線でオートラントへ。乗り換えのマリエからはバス。車窓からは相変わらずのオリーブ畑が見えてますが、次第にオリーブの木々も細く、岩のめだつ荒涼とした風景に変わっていきます。丘の上のオートラント駅に着いたのは12時近く、港方向の旧市街を目指して歩きました。聖堂が閉まっていたらランチを先にしようと思いながら、迷ったり、絵葉書買ったり、Informationに寄ったり、のんびり行ってみると、開いていました。
↓Google Mapより Otrantoの旧市街 茶色の大きな屋根が大聖堂です。
↓旧市街へは城壁の門から入ります
☆オートラントの大聖堂 Cattedrale
プーリア・ロマネスクの傑作とされ、州では一番大きな教会です。献堂は1088年ですが薔薇窓は15世紀、ファサードの扉口は17世紀に加えられています。
教会正面の扉口上の薔薇窓はレース編みのモチーフのよう。プ-リア地方の柔らかい白い石だからこのような繊細な窓が造れたのでしょう。これらの薔薇窓はプーリア・ロマネスクのなかでも最も魅力的なものです。
↓プラン(左クリプト)
ここの12世紀のモザイクはエミール・マールの著書「ロマネスクの図像学」で知りました。ア-サ-王(フランスではアルチュール王)の物語がフランスからモデナ(司教座大聖堂/扉口の彫刻)を経てここまで伝わってきたとのこと。他にもアレクサンダー大王や12ヶ月のカレンダー、そして圧倒的な旧約の世界・・・。タンパンや柱頭彫刻に繰り広げられた聖書の世界がここではモザイクに表現されています。身廊の中央部は入れませんが、左右の側廊はモザイクの上を直に歩いて鑑賞出来ました。復活祭のころ訪れた友人の話では中央部のモザイクの上に椅子が並んでいたそうです。私が訪れたときは教会内は半分工事中だったのですが、お目当てのモザイクは充分見学できました。写真は残っていないのではっきりした記憶はないのですが、カメラ禁止だったと思います。
↓左「アーサー王」 右「アレクサンダー大王」
↓レッチェで購入した本(モザイクの写真が多い)
↓バベルの塔
さて、次は地下のクリプトと、階段を降りようとしたら2時だからキュウゾといって皆追い出されてしまいました。お昼休みが終わったと思って来た人達(ガイドブックを信じて)はお気の毒。その人たちは当然文句を云うと、「わしだって、おなかがすくんじゃ」とかなんとか・・・昼休みの時間も鍵を持っている係員の気分次第なのが、いかにもイタリア。
オートラントの聖堂を出て時計を見ると、次の列車が30分後にあります。もうひとつの古代からの教会はあきらめ、急いで駅に戻りました。午後の汽車通学の中高校生で大賑わいの列車に乗ってガラティーナへ。ガラティーナへは2回も乗り換えて(待ち時間はほとんどなくスムーズ)到着。
ここも旧市街に入って迷っていると、粋な横縞のTシャツのおじいさんがひょっこり現れて、サンタ・カテリーナ・ディ・アレッサンドリア教会まで案内してくれました。徒歩10分くらいの路をグルグル回りながら・・・これでは迷うはず。
ところがようやく辿り着いた教会は内部が修復の工事中。おじいさんも遠い日本から来たのだからと一生懸命工事の人に頼んでくれたのですが・・・工事監督さんから危険だからと断られて。
マルケ派?といわれているフレスコ画を天井だけチラリと覗いただけ。残念でしたが親切なおじいさんには、本当に感謝でした。握手をしてアリベデルチ・・・だが、その手をなかなか離してもらえないの。歳はとってもイタリア男.(笑)。
タンパン上部にはアレクサンドリアのカテリーナの小さな彫刻、玄関柱廊にはお決まりのライオンの台座。後期プーリア=ロマネスクなのでアーキトレーブのレリーフは手がこんでいて、聖女の教会らしい優美さもあります。左の回廊は見学できました。後陣に回ってみたのですが、他の建物がびっちり隣接しています。それでも粘って写真を撮っていると、にゃーにゃー子猫が擦り寄ってきて。そういえば、この日はまともな昼食をとっていません。「空腹はあんた(猫)だけじゃないよ」。帰りの時間まで教会前のBARでスィートポテトと紅茶で休憩。
☆サンタ・カテリーナ・ディ・アレッサンドリア教会Santa Caterina di Alessandria
14世紀に建てられた後期プーリア・ロマネスク様式の教会。中央扉口は両側をライオンの台座に支えられた円柱に挟まれ、タンパン上部にアレクサンドリアのカテリーナの小さな彫刻。(写真はGoogle Earthより)
↓内部は天井の高い身廊。15世紀前半のフレスコ画(ジョットの影響がみえる)
帰途は迷うことなくInformationに寄り、親切なお嬢さんに地図(帰りにもらってもね)や教会のパンフレットなどいただきました。
ガラティーナ駅はトイレの鍵を借りて自分で開ける方式になっていました。(こんなのは初めて)。駅長さんの帽子やら駅員さんのレール切り替え作業などが、ノスタルジック。オホーツク海に近い、今は廃線になった故郷の駅を思い出しました。そういえば日本の鉄道はイタリアを参考にしたもの?
レッチェでは駅からホテルまでタクシーなので、ついでにサンティ・ニコロ・エ・カタルド教会へ寄ってもらいました。ここからようやく自分で撮った写真になります~ほっ!
☆サンティ・ニコロ・エ・カタルド教会SS Nicolo e Cataldo
街の中心から少し離れた墓地の敷地内に建っています。12世紀末にレッチェ伯によってロマネスク様式で建てられた教会ですが、ファサードと薔薇窓のほかはバロック様式で改築されています。
↓教会の墓地の方向
夕食は近くに中華料理の看板が出ていたので、旅の中間でもあるし、このへんで中華もいいかなと行ってみたのですがが・・・お客さんは私一人、隅の方でここの店の家族が食事をしているだけ。。。ヨーロッパで食べた中華料理でも最低かな?という不味さ。★なし。
(6)オストゥー二~ブリンデシ~レッチェ [2002 秋プーリア・ロマネスクの旅]
☆サンタ・マリア・デル・カサーレ教会Santa Maria del Casale
この教会は13世紀末に建てられたロマネスク=ゴシック様式のもの。内部の14世紀の壁画が残っているので、ロマネスクの教会というより壁画が目的で立ち寄りました。ところが扉は固く閉まっていて、張り紙には内部は10/1〜15まで修復中と書かれています。カラフルな外観だけ目にとどめて市内に戻り、サン・ジョバンニ・アル・セポルクロ教会へ。
☆サン・ジョバンニ・アル・セポルクロ教会San Giovanni al Sepolcro
聖地から帰還した聖堂騎士団によってロマネスク期(11~12世紀)に創建された聖堂。扉口にライオンが支える柱廊式の小玄関。参考書ではやや変形の集中式プラン、8本の円柱と周歩廊↓
ここは内部は修復中との情報を事前に得ていたのですが、路地の奥にあり静かで、足場もなく工事している気配はありません。鍵はかかっていたのですが扉の隙間からカメラをさし込んで内部を撮影。イギリス人らしいカップルも閉まっているのでがっかりですねと話していると、すぐ隣りの家からおばさんが出てきて、ブツブツ怒りながら、扉を少しも開かないようにがっちり閉めてしまいました。遠くからきたのだから見学したいと頼んだのですが、無理でした。。。この後はドゥオーモを見学
ドゥオーモはロマネスク期の創建ですが、ファサードは18世紀に改築されています。内部の床モザイクを見学後、駅に戻りました。距離も時間も短いのにタクシー代60EUR・・・ここはぼられたみたい。駅のBARで軽食のランチを済ませ、レッチェ行きに乗車。
レッチェのホテルはサンタ・クローチェ聖堂の近く、着いたときは気が付かなかったのですが、夕刻外出のときホテルをでると目の前に西日に輝く壮麗なファサードが見え驚きました。
↓レッチェのサンタ・クローチェ聖堂(ホテルの方向から&夜景)Google Earthより
↓サンタ・クローチェ教会(絵葉書)
バロックはあまり好きではないのですが、サンタ・クローチェは別格です。大迫力、渾身の傑作、ただただ恐れ入りまするって感じ。ここを観ただけで感動しつつも疲労感が増しました。
ホテルは昨年ペルージアで泊まったホテルと同じリーディングホテル・グループ、高級感のある内装が贅沢な気分です。レッチェはなかなか洒落た街、BARやショップも都会的な店が多くサンタ・クローチェ見学後は付近を散策。ここの名産のお人形の工房カルタペスタ兼ショップがあったので自分へのスーベニールを購入。カルタペスタではないのですが、おばあさんになったら旅もできなくなるし、編み物でもしようかと思って。でも、体型だけは似たくなかったのですが。。。近づきつつあります【汗)。
帰途、ホテルの前にある書店で偶然オートラントのモザイクの教会の本を見つけ、時間もなんとかなりそうですし、レッチェはバロックばかりであまり興味はかきたてられないので、オートラントに行ってみたくなったのです。書店のマダムが「オートラントはぜひ行ってらっしゃい」と強力なご推薦。そのうえ行き方はここで尋ねてねと2~3軒隣の旅行代理店へ連れて行ってくれたのです。若い女性の社員が親切に列車の時刻、乗り換えなど調べてくれました。
それやこれやで暗くなるまであちこち歩いて疲れてしまい夕食はルーム・サービス。前菜はスモークサーモン、スパッゲティボンゴレ。味はまあまあ★★久しぶりにバスタブに浸かってのんびり。
(5)バーリ~オストゥー二 [2002 秋プーリア・ロマネスクの旅]
10/7(月) バーリ→ビトント→バーリ→トーレ・デル・マーレ→オストゥーニ
朝、チェックアウトして荷物を預け外出。昨日のことがまだ尾をひいていて、気持ちはいつになく消極的になっていました。ビトントは特に駅から聖堂は離れているのが心細く、タクシーでビトントまで
行くことにしました。HOTELでタクシーを頼んだのですが、駅にたくさん並んでいるよと言われ駅へ。なかなか商売上手な運転手さんで、途中しきりにオストゥーニまで150EURでどうか?と勧められ・・・。昨日も100EUR使っているし、随分迷ったのですがバーリのサン・二コラ聖堂などの見学や、ランチなど時間がかかってもOKというのでお願いすることにしました。
バーリからビトントまで15Kほどですが、ビトントの聖堂は旧市街の丘の上です。しかも車一台が通れるくらいの細い道をくねくね抜けて、ようやく聖堂へ辿り着きました。人影はなくちょっと不気味でしたがタクシーが側で待っていてくれたので安心でした。この日はあいにくどんよりした曇り空で、写真は少ないです。
☆ビトント大聖堂Cattedrale di Bitonto
バーリのサン・二コラ聖堂をまねて12世紀に建立。
↓全景図はGoogle Earthから
↓右側面の開廊が優美な印象の教会。上部の六連窓を持つ開廊には動物や人の柱頭の浮き彫り、その円柱などもそれぞれ違うデザインでなかなか凝っています
↓ファサードは三つの扉口。正面の扉口の彫刻は繊細な紋様で縁取られ、タンパンはイエスの復活、ラントウはマリアの各場面。プーリアらしい「石の柔らかさ」の表現にうっとりでした。
↓ 張り出しの後陣ではなく、のっぺりした後背部の壁。動物の彫られたオリエンタルな小窓がプーリアスタイル。
↓プラン
↓内部にも誰も居なくて、クリプトも閉まっていたので、グリフォンのモザイク(11世紀)も観ていません(写真は参考書からスキャン)。
とにかくお天気が悪く暗いので、有名な説教壇の彫刻だけをようやく確認できたのですが、他は良く見えなくて残念。バーリへの帰り道、タクシーの運転手さんにこの近くに素敵な小さな古い教会があるから寄りますかと勧められたのですが、この後バーリ市内の見学、そして午後にはオストゥーニまで行かなければならないので断念。後で調べたらBITETTO及びその周辺はイタリア公式ガイドにも記載されていました。寄ってみれば良かったかしら・・・キリがありませんね。
↓先ずはお城のそばで記念撮影
そして大聖堂の広場へ。やはりバーリは都会ですし、観光客ではなさそうな失業中らしい男たち、なかには目つきの悪い人も(みんなドロボーに見えてしまいます)多くたむろしています。タクシーの運転手さんがここで見張っているからと言ってくれましたが、↓なんと大聖堂は修復中で見学不可
↓大聖堂の裏に回ってみました。先ほど見たビトントの後背部とそっくり!
サン・二コラ聖堂までの小路(写真下)へも婦人警官が付き添ってあげると言ってくれたり、とても親切。近くの絵葉書売場の娘さんも気がきいていて、切手もどーお?と愛想が良い。昨日から続いていた重ぐるしい気分も少しずつ和らいできました。
サン・ニコラの前にはパトカーも停まって警戒中、これではすりも近寄れないでしょう。
☆サン・二コラ聖堂San Nicola (初)
バーリの商人たちが小アジアのミラ(現在のトルコ・アンタルヤ県にあった古代都市)から後に市の守護聖人となったサン・二コラの聖遺物を1087年に持ち帰り、教会の建設が決まり、1197年に献堂。プーリア・ロマネスクの一つの典型。
↓白い石灰石で造られたファサード。広い広場に建っています。外観の写真は見学後に撮るつもりで失念したらしく、残っていません。全景図はGoogle Earthより
↓プラン
↓中央扉口の両側の円柱を支えるのは牡牛。(写真は参考書からスキャン)
↓
↓ クリプトの祭壇下には聖二コラの墓があるので、ギリシア正教徒たちの巡礼者が多く訪れていました。
↓貝の盛り合わせ、海老などのグリル、トマト味のオレッキエッテ、水、ワイン、エスプレッソで30EUR★★★★
↓日本人が珍しい?シェフも見えて記念撮影。レストランからは漁をする小舟なども見え、ここで出す魚もあのあたりからくるとのことでした。
このへんは直売の魚やさんが多く並んでいて、バーリから車で買い物にくる人も。
高速道路を飛ばしオストゥーニのホテルでタクシーを降りました。チップ含めて170€。
オストゥー二のホテルはあまり選択肢がなく、旧市街では見つけられなかったので、少し外れた割合大型のホテルを予約しました。
↓白いケーキのような丘の街が見える部屋(バスタブなし、二食付きで約100€)
↓内装はシンプルですが広く、赤くペイントされた家具が可愛い。
旧市街まで歩くと結構かかるとのことでタクシー(片道6〜7EUR)を使いました。旧市街入り口の広場でタクシーを降り、白い石畳の続く、迷路のようなロマンティックな街を散策しました。写真はトリノで1枚SDカードを紛失したので、オストゥー二からレッチェまでありません(涙)。
↓Google Earthから 「オストゥー二の白い街」「オリーブの林に囲まれたオストゥー二」「樹齢千年を超えるオリーブの樹」
↓絵葉書
帰りは広場のBARから同じタクシーを呼んでもらってホテルに戻りました。
ここは有名な観光地なので、ホテルではオーストラリアやドイツのツァーと一緒になって賑やか。ホテルのレストランで夕食。疲れがでてきたのかあまり食欲がなく、スパゲティ、オムレツなども不味くて・・・★
(4-2)バーリ(トラーニ) [2002 秋プーリア・ロマネスクの旅]
アドレア海を背に建つトラーニ大聖堂でタクシーを降りたのは1時を回っていました。聖堂の見学の前に、運転手さんもお勧めの聖堂の隣りに建つホテルのレストランでランチを済ませました。アンティパスト・ミスト(4皿)スパゲッティ・ボンゴレ、水、ワイン、エスプレッソで25EUR★★★。野菜も沢山添えられ上品な味、鰯のマリネは酢がやや利きすぎ。
ところが日曜日なので午後はミサも終わったからでしょうか?大聖堂の扉は固く閉まっていました。また一部は修復中。それで写真は外観のみですが、青い海と空を背景に建つトラーニ大聖堂の美しさは格別です。プーリアの諸聖堂は旧市街に埋もれるようにして建っていることが多いのですが、ここは海岸に孤立しています。
☆トラーニ大聖堂 Cattedrale di Trani
この場所にはもともと5~7世紀のサン・レウチョの地下埋葬室があり、その上にマリアを祀る教会が建てられていました。しかし劣化が進み11世紀末、トラーニで夭折した二コラが列聖されたことから教会建設が始まり、13世紀前半に完成。
↓全景
↓ファサード 薔薇窓やその下の小窓の周辺には動物たちの彫刻。
↓扉口周りの彫刻も凄すぎる~。両サイドに人間を襲うライオン
オリジナルの扉はブロンズ製(1175年制作)で現在は教会内部で観られるようです。私が訪れたときには情報がまだごく少なく、参考にしたイタリア旅行公式ガイド(1997NTT出版)ではオリジナルの扉はまだ外されていないときの記述でした。記憶が不確かですが、教会右にある司教区博物館に移されているとの情報もあったのです。しかし博物館も閉まっていました。
↓観られなかったブロンズの扉(参考書JacaBookよりスキャン)
↓扉口側柱に彫られた「ヤコブの夢」
↓南側面から
↓後陣外観
↓北側面へ
↓プラン(左1F)(右クリプト)
↓ 全体図はGoogle Earthから
↓近くには見学しませんでしたがお城も建っています。
↓角を曲がるとき振り返って・・・
昼間の旧市街は人通りもまばらですが危険な感じは全然なく、のんびり歩きました。
↓港のほうから見えたのはオニサンティ教会の後姿です。小道に面した入り口には柵があり閉まっていました。ここはテンプル騎士団のために献堂された12世紀の教会です。
↓駅までの途中に見つけた小さなサン・フランチェスコ教会(1176-84) 屋根にクーポラが3つ並んでいます。
大聖堂から駅までは1Kくらいの距離です。列車の時刻にあわせてBARで一休み。次の目的地、モルフェッタまでは列車で行きました。この線は幹線なので日曜日でも本数があり便利です。
さて、モルフェッタ駅に到着しましたが・・・ここでプーリアの旅最大のトラブルが待っていたのです。
疲れたのでモルフェッタの旧大聖堂まで駅前に停まっているタクシーで行こうとしたのですが、運転手さんはアルコールの入った赤い顔で、近いので(1キロくらい)歩いて行けばと断れてしまったのです。そこへ高校生くらいの男の子が二人現れ案内するというのです。地図も持っているからと断ったのですが、しつこく後ろからついてくるのです。途中、BARに寄って15分くらい休んでからでてみると、まだ待ち伏せしていて、目つきの悪い子も加わっています。ひと気のなくなったときが危ないかな?と日曜日の午後で閉まっているので内部は見学できないし、諦めて駅に戻りました。でも駅の近くまでなんだかんだと後ろから、文句言いながらついてくるのです。正直怖かったです。やっぱり南イタリアだわ・・・モルフェッタの旧大聖堂、外観だけでも観たかったので悔し涙でバーリに帰りました。明日からもこんなことがあったらどうしょう・・・ドッと疲れが出て夕食に出るのも億劫になり、部屋でカップラーメンを食べて早めに就寝。
(4-1)バーリ(バルレッタ、カステル・デル・モンテ) [2002 秋プーリア・ロマネスクの旅]
このホテル、部屋の過ごし易さは良いのですが、貧しい朝食なのが残念。美味しくないパンをコーヒーとジュースでなんとか食べて、9時過ぎの列車でバルレッタへ。アドレア海岸を北に向かって走ります。列車の遅れもあって、バルレッタについたのは10時半ころになりました。途中雨も上がり青空の広がる素晴らしい天気になりました。今日のスケジュールは旅のハイライトが含まれ、距離も長いのでタクシーを使います。駅前のタクシーと交渉して、バルレッタで2教会の見学〜カステル・デル・モンテ〜トラーニまで100EURで行ってもらうことになりました。走行距離100キロ、2時間半くらいかかってトラーニの大聖堂まで送ってもらって、らくちんでした。
先ずは駅から港方向へ。お城を横目にドゥオーモへ。
↓聖堂前が狭いので全体の写真は撮れませんでした。GOOGLE EARTHから
☆バルレッタ大聖堂Duomo di Barletta(初)
ロマネスク様式で12世紀前半に建立。14~15世紀にはゴシック様式で拡張。
↓ファサード 扉口はルネッサンス様式
↓鐘塔の下はアーチで通り抜けできます。
↓内部
↓内陣のキボリウム(1267年制作)
↓ドゥオーモ前の街路。黒ずくめのおばあさんが歩いてました。南イタリアに来たことを実感。
少し駅の方へ戻りサント・セポルクロ聖堂へ。
☆サント・セポルクロ聖堂Santo Sepolcro(初)
街の中心大きな通りの角に建つ、12-13世紀のゴシック様式の教会。ロマネスクに近い3つの後陣。ファサードはルネッサンス期のもの。
↓左手にファサード。正面のアーチは中世の建築の遺構。
↓内部は三廊式で、一部フレスコ画(14世紀)が残り
↓13世紀の洗礼盤
↓後陣外観
↓教会北側の大通りにコロッソと呼ばれる巨大な古代彫刻。ローマ帝国末期の皇帝像と言われ13~14世紀にコンスタンティノープルから運ばれたもの。
バルレッタはこの日はフェスタで、音楽隊のあとに市民の団体などがパレードして賑やかでした。旧市街にある聖堂は、このあと訪れる各地の聖堂はほとんどが同じ状態、人々の生活にとけ込んだ、街に同化した形で建っています。オフホワイトのプーリアの大理石で造られているのも、浅い円を描く後陣も特徴でしょうか。
バルレッタをあとにカステル・デル・モンテへ。アンドレアの街を抜け30Kほど走り、広大なオリーブや松の森を抜けて丘の上のお城に着きました。周囲を含めて素晴らしい景観です。
↓上空からの写真はGoogle Earthから(色が?)
☆カステル・デル・モンテ(初)
フリードリッヒ二2世(1194~1250)による大建造物、王の生涯や人となりはここでは触れませんが、北イタリアより南イタリアを愛し、芸術的技術的な興味を要約し、建造させたと言われています。八角形プランのそれぞれの角の外側に同じく八角形の塔。
↓中庭から
世界遺産だけあって、日本人のツアーも見学中です。ここはバスの便が悪いのでほとんどが団体かマイカー利用の見学者のようです。
再びアンドレアを抜けて、アドレア海沿岸のトラーニへ向かいました。
続きます~。
(3)ミラノ~バーリ [2002 秋プーリア・ロマネスクの旅]
午前中はサン・ロレンツォ・マッジョーレ教会へ。教会前にはティチネーゼ門に続きローマ時代の円柱が並んでいて壮観。すぐ脇を市電のレールが走っています。
☆サン・ロレンツォ・マッツジョーレ教会San Lorenzo Maggiore(初)
聖堂の前に6本の円柱(2~3世紀)が並び、初期キリスト教時代に建立、12世紀にロマネスク様式に改造。そして16世紀後半に修復した集中式プランに3つの礼拝堂を持つ構造は当初のまま。改築を重ね一見複雑な外観ですが、ミラノでも最古の教会の一つ。
↓プラン
周歩廊に囲まれた集中式教会から4世紀のモザイクの残るサンタクィリーノ礼拝堂へ。礼拝堂の入り口の小さなブックショップのおじさんに入場料を払います。入り口硝子扉の左手に修復中のロンバルデァ派の磔刑図があり、テントの横からのぞき込んでようやく見れました。
↓8世紀の磔刑図(絵葉書)
礼拝堂の内部は4世紀のモザイク画がありラヴェンナのより渋い色合い、洗練された感じ。後陣も複雑な形で元の建築構造も見て取れ興味深い。
↓6世紀のモザイク「キリストと12使徒」(絵葉書)
後陣裏側は公園のようになっていて、老いたマラミュート(14歳)と散歩中のお爺さんとお話。マラミュートは大きいし足もヨロヨロ、お爺さんも大変そう。「我が家のハスキーも12歳なの」・・・うちは犬の老後のほうが早いから、まだ良いかな。
裏道を抜けてサンタンブロージョ聖堂へ。
途中道を間違えて結局大通りにでてしまいました。3年前に次女と泊まったホテルピエール・ミラノの前を通りましたが、近くにあったレストラン(蚊に襲撃され、さんざんな目にあった)思い出の店は潰れたのかなくなっていました。
☆サンタンブロージ聖堂San Anbrogio(2)
サンタンブロージョの広場の門には、以前来たときは人が入れそうな(多分、囚人の見せしめ用)籠がぶら下がっていたのですが、今回は見あたりません。
聖堂の前庭の修復も済んでいて明るくなっています。
丁度、結婚式が始まるところで足の悪いお父さんが杖をつきながら、娘に半分支えられながらバージンロードを歩く様子に感動。祭壇の周囲はそういうことで見学できないため、サン・ヴィットーレ・イン・チェルドーロ礼拝堂へ。なんと入り口で入場料を払うことになっていた。ただ以前はクーポラのモザイクを見るのに、小銭を入れて電気を点けたのだが、照明完備になっていたのは有料になったからでしょう。ここではベルゴニョーネの「キリストと天使」なども展示。
聖堂の横から回廊にでて、ここから眺める塔。小さなオラトリオと書かれた建物もあり静かな空間を楽しみました。
近くのミラノらしい素敵なBARで休憩。カウンターに並べられたおつまみ風のオリーブやカナッペの美味しいこと!!それらを適当につまんで、エスプレッソ飲んで2EURもしなかったので、計算間違い?奥のほうではゆっくりランチもできるようになっています。地下鉄でホテルに戻り、朝預けた荷物を持って空港バスでマルペンサヘ。荷物預かり所でトランクを受け取りチェック・イン。上階のカフェテリアでランチ(不味い)。バーリ行きは定刻より早めに滑走路へ。飛んだのが定刻・・・イタリアでもこういうこともあるのね。
バーリは雨模様、空港からタクシーで(20〜25EUR)市内にはいりました。綺麗とか整然とかとはかけはなれた雑多な感じのする街・・・ここにロマネスクの聖堂が残っているとは奇跡だなあと思うほど。。。ホテルは駅前にある4★のレオンドーロ
↓9階の部屋からバーリの駅が正面に見え、木の内装が清潔感のある広い部屋。
最初の2泊はバスタブなし93EUR、次に戻ってきた時はバスタブつきにしてもらったのですが、料金は同じでした。一休みの後は早速、バーリってどんなとこ?とこわごわ様子を伺いに外出。でも土曜日とあって家族連れ、若いグループで大賑わい。これなら大丈夫と、またまた買い物ついでに商店のおじさんにブゥオン・リストランテの在処を尋ねました。「クッチーナ・シノアか?」「ノン、クッチーナ・プーリア!!」紹介されたのはすぐ近くのピッツエリアを兼ねたお店。入店したのは7時半を過ぎたころ、まだカメリーノたちはトレーナースタイルで、8時すぎたら黒服に着替えてました。アンティパスト・ミストは4皿、イイダコの酢の物、鰯のフリットなど、まるで日本食のよう、素朴で美味しい。パスタはもちろん名物のオレッキエッテ、これにワイン・水・エスプレッソで20EUR★★★。
帰りもまだまだ大勢の人出があり、悠々と駅前の黄金の獅子旅館に帰りました。プーリアの第一夜は熟睡。
(2-2)ミラノ [2002 秋プーリア・ロマネスクの旅]
♪~ドニゼッティ『ルクレツィア・ボルジア』ミラノ・アルチンボルデイ劇場 20:00~
指揮:Lenato Palumbo 演出:HUGO DE ANA オーケストラ:Teatro alla Scala
ルクレツィア・ボルジア・・・MARIELLA DEVIA
フェッラーラ公・・・MICHELE PERTUSI
ジェンナーロ・・・MARCELO ALVAREZ
マッフィオ・オルシーニ・・・DANIELA BARCELLONA
私の席は一階中央左より、新しい劇場とあって、とても見やすく音響もGOOD。舞台はなかなか豪華な鈍色の鉄製に見える壁板を場面毎に組み替えながら展開。ヴェニスやフェッラーラの宮殿や街角の雰囲気が良くでていました。ルネッサンスの光と影、芸術の華開く人間復興の時代、そして聖職者をもまきこんだ血なまぐさい政争の嵐。官能的なダンスとともに堕落したカソリック法王の衣裳からあらわれる美女たち、ルクレツィアの出生のいわれを思い起こさせます。さまざまな悪女伝説に彩られたルクレツィアですが、2002年はルクレツィアがフェッラーラのエステ家に嫁いで500年ということもあり、フェッラーラでは記念の展覧会も開催されています。翌日バーリに飛んだため、残念ながらフェッラーラを訪れるのは不可能。
デヴィーア、ペルトゥージ、バルッチェローナ、アルバレツが丁々発止!!とでもいったらよいのでしょうか、火花の散るような歌を聴かせてくれました。デヴィーアはもの凄い人気、ファンクラブ?フライング気味の拍手にちょっと気分がそがれることも・・・もちろん、ミラノ名物?の「シーッ!!」は何度もかかり苦笑い。
このオペラは一度サザーランドの映像を観ただけで、予習用のCDもさらっと聞いただけ。まったくの予習不足で臨んだのですが、舞台美術、衣装もルネッサンスらしい華麗なもので素敵でした。最高のキャストをそろえ、タイトルロールのデヴィーアの入魂の歌唱が特に印象的。悪い噂や非情な夫との荒れた生活の中で、ようやくめぐり合えた吾が子の死に悲痛な最後のアリアに・・・涙。
演出は当時の16世紀のヴェネチアやフェッラーラを舞台に政治、宗教の荒廃や堕落のエピソード的なシーンを挿入した見事なもの。この日はカメラが入っていて、後日映像を観ることができました。ペルトゥージの細かい演技には改めて感心させられました。
↓プログラムの表紙は当然ながら、ヴァチカンの壁画に描かれた憂い顔の細面の美しいルクレツィア。
夕食はオペラの前にアルチンボルディ劇場のカフェでカナッペとコーヒーで軽く済ませ,
夜食にはお湯を沸かして即席うどん。明日からは本命のプーリア探訪です。
参考CD:Donizetti『LUCREZIA BORGIA』1989録音
指揮:Jonel Perlea RCA Italiana Opera Orchestra & Chorus
Don Alfonso:Ezio Flagello Lucrezia Borgia:Montserrat Caballe Gennaro:Alfredo Kraus
Maffio Orsini:Shirley Verret
参考映像:ドニゼッティ『ルクレツィア・ボルジア』1999.10 道新教室にて
(2-1)ミラノ(パヴィア) [2002 秋プーリア・ロマネスクの旅]
7/4(金)朝食はブッフェスタイルでコーヒーも美味しく満足。昨夜は出発まで予約ができていなかったオストゥーニとターラントのホテルもレセプションに頼んで、プーリアまで何度も電話してとってもらえました。なので、印象はかなりアップ。
このホテルは中央駅がすぐ近いと油断してのんびりし過ぎ、切符売り場も混んでいたのでビナリオに駆け込んだのが、発車5分前・・・そしてやってしまいました。9:10 Genave行きをGenova行きと間違えて乗ってしまいました。同じ時間に、紛らわしいことしないで・・・と怒ったものの、後から調べたら私の勘違いで終点はGenovaではなくLa Speziaだったんです。。。とにかく次の駅で降りミラノに戻り、予定より2時間遅れでパヴィアに着きました。駅からサン・ミケーレ教会まで15分ほど歩きます。丁度お葬式が終わったところでした。お見送りが終わって人々が立ち去るまで入るのを遠慮しているうちに・・・お昼休みでキューゾ。
2時半に開けるというので、近くのサン・ミケーレ書店でお買い物ついでに
「この近くににブゥオン・リストランテある?」と店番のお嬢さんに尋ねたところ、店の名前と通りの名前を(徒歩数分)書いてくれました。入り口はめだたない小さなレストランですが、なかは人がいっぱい、そこのリブレリアで紹介されたというとニコニコして、一皿目のパスタは注文なしに「なんとかかんとか」とかってにもってきて、うちの自慢のパスタだといいます。今までで一番美味しいペンネ・アッラビアータでした。隠し味に何とかいうナッツ?を使ってるとか言ってましたが、よく聞き取れませんでした。二皿目は牛肉、とてもシンプルな味付けで、これもGOOD。フルーツのデザート・ワイン・水・エスプレッソ込みで20EUR ★★★
↓パヴィアのティチノ川にかかるコぺルト橋も眺めて
この後は念願のサン・ミケーレ教会(ロンバルディア・ロマネスク)の見学です。当時のデジカメは画数も少なく、教会の壮大なファサードも全体は入りきらず、内部も暗くてほとんど撮れませんでした。
☆サン・ミケーレ教会La Basilca di San Michele a Pavia (初)
パヴィアはローマ時代から栄え、6世紀にはランゴバルド王国の首都になり、この教会もランゴバルトの創建ですが、12世紀半ばには改修。ロマネスク建築の傑作のひとつです。砂岩の彫刻や浮彫の風化が激しく、補修も目立ちますが、それも最小限にとどめたいという想いが伝わってきます。
↓パネル状のファサード(中央上部)付け柱で3等分され、段違いに連なる小開廊アーチ
↓中央扉口
↓他の扉口
内部は三廊式で、暗くて柱頭彫刻も良く見えません。通りがかった神父様に絵葉書を買いたいと言いましたら、奥のデスクのある部屋に案内され、箱から取り出して売っていただきました。
↓プラン
↓ 後陣はどうなってるのかしら?とファサードの北方向をみましたら、アーチが
↓アーチの向こうは民家。洗濯物を干してある庭先を遠慮しつつと回りますと、さすが高さのある堂々たる後陣が見えました。参考書のデッサン(1865-1882)とほとんど変わらない姿。
↓ロマネスクの厚い壁と窓がいかにも~!
さて、ファサードを飾る大天使サン・ミケーレさんたちに別れを告げサン・ピエトロ・イン・チェル・ドーロ教会までは街の散策を楽しみながら歩きました。
↓ほぼ地中に埋まった7〜11世紀のクリプト(屋根、鉄柵で保護されている)
ロマネスク時代の塔(あちこちにある)、15世紀に創建されたというパヴィア大学の美しい中庭を横切って行きました。
サン・ピエトロ・イン・チェル・ドーロ教会San Pietro in Ciel d'Oro(初)
1132年に奉献されたロマネスク建築の教会。ファサードは先ほど見たサン・ミケーレ教会と似ています。付け柱で3分割され、上部の小開廊のアーチなど。サン・ミケーレは黄みを帯びた砂岩で、こちらは煉瓦です。中央の扉口は一部大理石で、細かい彫刻で飾られています。
夜はオペラなので早めにミラノに戻るため、内部は覗いただけで駅に戻りました。
↓パヴィア駅の近く
博物館も他のロマネスクもまだ観たいところが残っています。ミラノからも近く、また来れると思い列車でミラノへ帰りました。
続きます~
(1) ミラノへ [2002 秋プーリア・ロマネスクの旅]
早朝5時に起床、夫に千歳空港まで送ってもらいました。羽田でリムジンバスに乗り換え成田へ。飛行機の遅れもなくスムーズにいきましたが、JALのカウンターには1時間前に到着でした。結構きつい乗り換え・・・昨夏も同じ便でしたが色々あって30分前に着いて、ハラハラ汗だくになったことを思い出ししました。2日前の大型台風にははらはらさせられましたが、今朝は快晴。ほぼ定刻にミラノに向かって飛び立ちました。ミラノのマルペンサ空港到着後、早速トランクを預けようとしたのですが、荷物預かり所が移動していてうろうろ。結局、広いターミナルを一往復して「初めから疲れるぅ〜」とブツブツ。ミラノ2泊分の手荷物を持ち、空港連絡バスで中央駅まで。ホテルは中央駅の停留所から100Mほど。今回の旅では一番高いホテルなので、期待したのですが見事に裏切られました。殺風景なビジネスホテル、これほどエレガントさの欠ける内装も珍しい。(この後何年かして高級ビジネスホテルに改装)。夕食はお向かいの同系列のホテルのレストランで。こちらのほうが高級感があり、日本人のツアー客もみかけました。メニューにピアット・ウニコがあり、ミラノ風リゾット一皿に、ミネラルウォーター、ワイン、コーヒーで21EUR(★)夜はテレビでサッカー観戦、中田の活躍に拍手しながら、気分良く就寝。